昭和五十一年十月二十二日 朝の御理解
御理解第三十六節 日本国中のあらゆる神を、みな信心すると言うが、それはあまりの信心じゃ。人に物を頼むにも、一人に任すと、その人が力を入れて世話をしてくれるが、多くの人に頼めば、相談に暮れて物事はかどらず。大工を雇うても、棟梁がなければならぬ。草木でも芯というたら一つじゃ。神信心もこの一心を出すと、すぐおかげが受けられる。
この度は、菊栄会の方達の恒例の信心実習。急に、御神意のまにまに宮崎地区に合楽教会の宮崎支部が結成ということで、おかげを頂いてまいりました。 まぁ、皆さん大変な喜びでございましたが、今度の宮崎行きで、いろいろなことを分からして頂きました。
信心をさせて頂くと、例えば今日は「一心を出すとすぐにおかげが受けられる」という一心。これは、直ぐにおかげが受けられるということは、常日頃に、一心の信心が、所謂金光大神のお取次ぎを頂いて、天地金乃神様のおかげを受けると言う一心が出される。成程直ぐにおかげが頂かれるというような風に、今日は、まぁ聞いて頂きたいと思います。
朝の御祈念を頂きましてから、直ぐ準備。そしてもう、ここを6時に出発でございますから、御祈念を頂いて、ここを下がってお風呂を頂いて、それから着物を着替えさせて頂くんですけど、今度、宮崎行きの、いろいろな見物をさせて頂いたりすると、プランの中に、今度は宮崎に自然動物園がでけとりますよね。あそこを見るということで家内に、「あそこは自動車が象からか、ライオンからか襲われたという話を、本なこつか嘘か知らんけども、一寸そればってんか危なかねぇ」ち、言いながら部屋に入りました。そしたら今年は、初めてでしたけれども、私の一番嫌いなのがですね、何かぴょんぴょん飛びよりますもん、部屋のなかで、そしたら何と、青蛙の小さいとです。しかもあの、孫が休んどります布団の中に入っていこうとする、飛んでから。それから家内をけたたましく呼びましてから、まぁそれを取り除いてくれたんですけれども、直ぐ私は思わせて頂いたけども、先日から、今度の教団の新発足の宣言文の中にね、の説明の中に、小動物の上にも、いろいろの異常があるということですね。所謂、緑が少なくなったから小動物がおらんごとなったというような、天地と植物との関わり合いと言うものが説いて御座いましたように、成程ね、小動物を使こうてでも私の心に安心を与えて下さるということ。まぁ、例えば、知らん事とは言いながらね、そういうその、危険を感ずるようなとこは一つもありませんけれども、成程、やはり象が自動車の前にやってきますし、ライオンが前を後ろを通っていくのですから、本当に、ああいう動物が本当に襲いかかってくるなら危ないでしょうけれども、もうある意味で慣らされておりますし、危険を感ずるようなことはぜんぜんありませんでしたが、初め、ちらっとそんなことを感じたらね、言うならば怖くもないものを怖いと思うておるということをお知らせ下さって、まぁ宮崎行きの、その動物園の危惧の念も一遍で飛んでしまうというようなことです。不安とか、危険を感ずる。怖くもないものを、私にとってはほかに怖いものというのはないけれども、私はあの青蛙が一番怖い。怖いと言うて蛙が噛みつく訳でもないのですけれども、何とはなしに虫が怖いというのでしょうか、所謂怖くもないものを怖いと感ずる。そういう言わば、心がそういう危惧の念が一遍に飛んでしまった。人間というものはちょっと不安なことがあると、不安なことに心が捕らわれる。
御承知のようにあの日は、雷雨を伴うて、この辺は、ちょっと前まで、御祈念前までどしゃ降りでした。それが、私どもが福岡へ、ここを発たせて頂くときにはもう上がっておりましたが、ちょうど飛行場へ着く一寸前に、だいぶんまた降りましたが、あちらへ行ったらおかげを頂いて、もう雨は上がっておりました。そういう天候の中に飛行機に乗りこませて頂いたんですけれども、今度の飛行機は小さい飛行機でした。行きがけは。帰りは大きな飛行機でした。ですから、エア-ポケットなんかに入るとスト-っと下へ落ちるんです。はっと思うような、その時に神様へ心中祈念させて頂いておりましたら、木辺に奉るという字を頂きました。『棒』という字になりますね。木辺に奉る。神様が心を奉れば体まで奉るようなことはないということです。危険はないということです。但し心は神様に何時も奉っておれ。これは信心させて頂くものの姿勢であり、神に一心ということは、天神様にも捧げとる仏様にも捧げ取るといったようなことではいけない。金光大神のお取次ぎを頂いて、言うならば、天地金乃神様に何時も自分の心が捧げてあるということは、何時もその天地金乃神様のお心任せということである。金光大神にお取次ぎを頂いて、心任せになっておくということである。それがおかげを頂く、言わばコツだという訳です。一心とはそういうこと何です。
帰りの車の、飛行機のときは大型の飛行機でしたから、もう本当にバスにのっとるよりも楽な訳ですけれども、ちょうど、今乗せて頂きますから、そのことを神様にお届けさせて頂いておりましたら、自然動物園で、駝鳥ですかね、脚の長い鳥がいます。ダチョウは大変に足が速い。韋駄天のように早いと申しますね。そのダチョウを頂くんです。そして御理解に『それこそ、韋駄天といえども、宮崎福岡間を三十分あまり、ぐらいの短時間で走ることは出来まいが、こういう神様のおかげで、文明の利器と言えば文明の利器ですけれども、そういう働きを受けておるということも、全部天地の親神様のおかげである、働きである。もうどんなに考えても宮崎福岡間を三十分で飛んで行けるなんて、とにかく、まぁ何と有難いものができたものであるなぁと、飛行機の言うならば事に対して、そういう有難いという心で行けば安心』という意味の御理解を頂きました。
私はもう、金光様のご信心は、言うなら、今申しましたように、自分の心を何時も奉っておくということと、その時その時に、例えば今日こうして健康であると言うことを、ふと健康であることの喜びを、どんなに考えても信心させて頂くようになったら、このようなおかげを頂いて、健康であることが有難いと、この一心が出たら、もう一切がおかげです。漠然としたものではない。そこ一つに一心。これは、なら信心させて頂く、必ずしも飛行機に乗るときだけでありません。ただ健康のことだけではありません。何はともあれ日々こうやっておかげを頂いておるということは神様のおかげであると、有難いと思うことが一心になるときに、言うならば危険も感じない、もちろん、そこに不時の災難などが起こってくる筈もない。この有難いという心です。昨日飛行機のなかで、久富正義先生が横に掛け取りましたから、今頂いたことをすぐ話したことでした。とにかく金光様のご信心ちゃね、兎に角有難いという心が一心に現れてくるということによって、おかげになってくるのだと。どんなに考えてもです、それこそ韋駄天と言われるような、例えば人がおったと致しましてもです、昔韋駄天という人が、大変に速い足を持っておったというので、早いものの事を韋駄天と言うんだそうですが、たとえ韋駄天であっても宮崎福岡間を、とても三十分間で飛んでいくようなことは出来まい。何と有難いものができたものではあるなぁ、しかも、空を駈けておるということ、どんなに考えても有難いことだなぁ。それを当たり前のような、飛行機の、言うならば、料金を払っておるから、飛行機に乗るのは当たり前ではなくて、何と便利なものが、何と有難い物ができたものであろうかと、有難いと思うたら、一切がおかげ。持ち論地回りのことなんかは神様が有難しで引き受けて下さる。たとえ、それが事故で転落するような、墜落するような事にある運命の、例えば飛行機でありましても、そういう飛行機に、そういう有難いという心を持った人が一人おったら安全だということであります。だから、金光様の御信心はね、そのどんなに考えても有難いことである、神様のおかげを頂くと頂かんということは、こんなにも違うもんだろうかという、有難いという一心が出るか出ないかという事。それには、私共が出がけに頂きましたように、何時も心は神様に奉ってあるという神様任せの心というものがなからなければならない。
ですから、何様も拝みよる、何様にも頼んできた。と言ったようなことで、直ぐにおかげが受けられると言う。ね、例えば、今日の御理解。直ぐにおかげが頂かれておるでしょう。心に不安を一寸感じたら、小動物の蛙を使こうて「怖くもないものをお前が怖いと感じておるぞ」と、もう心の中にリラックスすることができます。心が楽になります。本にそうだ、怖くもないものを怖いと思うておる。神様の、こういう御守護の中に行くものを、何が怖いことがあろうか。もうそれは、不安の不安も、ささやかな不安なんですけれども、そのささやかな不安でもあってはいけない。ただ有難いものがなからなければいけない。ためには、何時も自分の心が奉られておらなければならないということ。
同時に、「どんなに考えても有難いことだなぁ」ということなんです。お食事のときでも、どんなに考えても有り難い事だなと、お食事をさせて頂きながら。 もうこの度、二日間の日程で帰らせて頂いた訳ですけれども、その二日間の行ってから帰ります迄、もう本当に神様の御守護を受けておるということはこんなことだろうかと。私、あちらへ着かせて頂きまして、それこそ面食らいましたけれども、飛行機から下りてから、あの、待合所にあんた、あちらの宮崎支部の方達が、兎に角何十名でしょうか。あの、結成の御祈念、結成式を簡単に終わらせて頂いて、そして、すぐ六時から会食でしたが、会食に参加された人だけで何名でしたかね。高橋さん。二十二名でしたかね。それに飛行場にはもう沢山の人が、見えておられて、しかも、みんなが正装に近い、それこそ女の方なら訪問着のような、風なね、もう正装してからでした。パ-ッと並んで、私共。どこのどういう偉い奴がくるじゃろうかち、言うごたる風な。そして皆さんがこ-して合掌してから向かえてくれました。もう本当に面食らってしまいました。もうあちらへ参りましたら、もう皆さんの、何から何までスケジュ-ルが出来ております。ちゃんとこう印刷してあってですね。それを、もう万事万端に行き届いたことでしたが、ホテルも宮崎では超一流だそうですが、宮崎観光ホテルでした。もう大変立派な部屋を取って頂いて、それからもう宴会場は、百畳敷に、兎に角私共が十名いっとりますから、三十四名ですから、ほどんど百畳敷一杯でした。もう本当に、大宴会になりましたが。もう本当に思いを込められて、それこそたくさんなお御馳走であるだけではなくて、網さんが、大体魚屋さんをなさっておりますから、「これは長男が思いを込めて作って参りました」と言うて、こういう大きな、木の船の形をした容器に、エビから、鯛、烏賊、もうあらゆる、いわゆる魚の活き造りですね。もうとても、それだけのものが食べても、一皿だけでも、大体がたくさんおご馳走があるとですから、それこそ竹の皮に包んでから持って帰ろうごたる。(笑)そのようなね、こうしなければおられないというサ-ビスなんですやっぱ。もう行きがけ、その日はあちらへ着きましてから、すぐ青島と、それから鵜戸神社、そして帰りましたのが四時。すぐお風呂を頂いて、すぐ皆さん全部集まりましたから、私の部屋にとってあります十二畳と洋間を続けて、あただに御神前をしつらえてましてね、そして、御祈念、そして、こちらから菊栄会が行っとりますから、祝詞なんかやっぱ、一通りあります。それから、支部長、副支部長を定めさせてもらう。というような、それから終わりましたらすぐ宴会ということでしたが、それこそあの、計画してあった時間、計画通りにしておる。なんか置いたものを取っていくような順調さでした。お天気も、やっぱあちらも朝まで降っておったそうですけれども、私共が行く頃から上がって、もう何ですかね、もう曇でしたから、それこそ降らず照らずの涼しい風の吹く中に、あちらこちら見物させて頂いた。その二日間がもう、ぶっとうしでしたが、一番最後に私は、もう帰って参ります、宮崎の市内にもう入ってからでしたけれども、たくさんな人が交通止めのようになんかしてあって、こうしよりますもん。何事じゃったじゃろうかと思いよったところが、継母の人が子供さんを殺してから、何かテレビにまで頼まれた、何が出とったでしょう。あの、継お母さんがですね、五つか六つになる前の子供を殺して、自分方の、何かところに埋けとったち。それの実地検証があっておるところでした。それが何と、ちょうど四・五日前にここにお取次ぎが頂いてあったんです。その野田さんというここの御信者さんの幼稚園が友達だそうです。それにもう、お母さんがあんまり嘆きなさるですからね、じっとしておられんからと言うて電話が掛かってきた。その嘆きよんなさるお母さんが殺しとった。なかなか芝居がうまい訳ですよね。テレビにまで出てから、どうぞ全国の皆さんお願いしますというごたる、そういう意味のことを、何かあんな番組がありますでしょう。それが何とお母さんが殺しとったということでした。そん時にね、「おかげを頂きますように」ということじゃなかったです。お取次ぎを頂くときに。「兎に角早く安心ができますように」。そしてイントロゲ-ションマ-クを頂いたんです。
ですから、お取次ぎをさせて頂いておるその顛末を私の目の前で見せて下さったという感じがしました。 それが宮崎に帰りましてから、市内に入ってからでしたからね。市内の方だったそうですから。そういうようなことの中に、今度の宮崎行きを終わらせて頂きましたが、昼は男の方達ばかりで、小さいバス一台借って下さってありましたから、それで皆さんが就いて来て下さる。夜は、女の方達も一人二人見えましたけれども、夜は又、迎えに見えた方達がみんな、あちらに、飛行場に来て頂いて、そして、見送りをして頂いて、それこそ手にもお土産をたくさん言付けて下さると行ったようなね、本当に真心一杯の中に宮崎の支部の結成が行われ、同時に菊栄会の方達の信心実習を目の当りに私どもも実習させて頂いた感じでしたが。
そういう中にあって、皆さんにはじめに聞いて頂きました、「一心を立てるとすぐにおかげが受けられるということは、今日はそういう意味での一心。本当にどんなに考えても有難いことじゃある。今日こうやって健康のおかげを頂いておったということも、こうして三度三度のお食事が頂けるということは、なんと有難いことだろうかと、私は頂ける信心が必要だということなんです。もう三度三度の食事するのは当たり前。健康であることも当たり前。そこには、、どんなに考えても有難い。おリゃ飛行機の料金払ろう取るけん乗るとは当たり前。それではいつも不安が伴います。どんなに考えても、兎に角宮崎福岡間を三十分か四十分で走れる飛んでこれれるという、何と有難いものができたものたものであろうか、まぁ何と有難いものを利用させて頂くことができる。と言うその有難いという心に直ぐ、その場でおかげが、一心を出すとすぐにおかげが受けられるということはそういうことなんです。もちろん、その有難いという心に一切のおかげが伴うて来るのです。
同時に、信心をさせて頂くならば、何様にも、この人にもと、あの人にもと言うのではなくて、この方一心。言わば金光大神のお取次ぎを頂いて天地金乃神様に、自分の心をいつも奉ってある。いつも、神様に委ね切っておる、任せ切った心。そういう心に言わば、おかげがある。そういう心にその場で安心ができる。そういう信心をさせて頂いておる限り、いつも自然は私のバックである。そういう自然の御恩恵の中に私共が日々を生活することができる。ちょっと心に不安を感じても、神様が小動物を使うてでも、怖くもないものを怖いと思うておるぞ、お前は今、怖くもないものを怖いと思うておるぞと、自然動物園の、本当か嘘か知らんけれどもそういう話を聞いておったから、ちょっと危険を感じた。象やらライオンやらが自動車を襲うて来ることはなかじゃろうかと、ちょっと思うた瞬間にもう、神様は小動物を使うて、怖くもないものを怖いと思うておる。本なこてそうだと、思うときにはもう心がリラックスしておる。心にやすらぎが生まれてくる。ただ、有難い有難い。そんときそん時に、その思いというものをそこに集めれるということが一心なんです。
飛行機に乗らせて頂いて、どんなに小さい飛行機であって、はっと思うようなことがあってもです、兎に角心を奉っておるんだから、次の瞬間には安心がある。
私は今日は皆さんに本当に、もう、さんの周囲にはです、ここまでお参りができるということは、ちょっと考えてみれば見るほど不思議な程に有難いということを分かることです。自分が、ただ何でもなしにお願いがあるから参ったと、ただ、それだけであってはおかげになりません。歩かれておるということは何と不思議なことだろうか。本当に福岡なら福岡からここまで一時間あまりでやってこれるということは、何という有難いことであろうかという風にね、その有難いという心をそこに、一つに絞って感じる心が有難いと思う一心です。その一心に直ぐにおかげがあると仰せられるから、ね、すぐにおかげがあっておるでしょう。心のなかに不安が飛んでいる。反対にありがたいというものだけ。不安が飛んでおるという事が、既におかげであります。 だから信心にはね、その有難いということを、どのような中からでも感じさせてもらえれる心の繰り合わせ。それには、どうでも、いつも私の心は、言わば、棟梁は一人でなからなければならない様に、草木というたら、芯というたら一つでなからなければならない様に、いつも生神金光大神御取次ぎを頂いて、天地金乃神様に心を奉ってある。神様に委ねてある。神様任せであるというこの二つが大事であるということが分かりますですね。どうぞ。